脆弱な狂気と、 絶望が見たいか 血がつたうのを見ていた。やさしく握られた片方の手に汗をかいてしまいそうなくらい苦しい。もう片方の手には水月の鋭い鮫のようなギザギザの歯が刺さっている。 半分ずつに、やさしさと、そして狂気がある。 痛い?と聞いてくる水月にわたしはかぶりを振った。ごめんね、と呟く言葉に申し訳なさそうな気持ちは含まれていなくてなんだか、やるせない。 眉をひそめたわたしのほほに水月が頬をすりよせる。まるで動物のようなのに、あたたかくない。増して眉をひそめる。 「そんな顔してる君は、噛めないな」 「ほんとに?」 「う〜ん……」 「ほら、ね」 「ごめん」 「ならもっと噛んでよ」 こくり、頷く水月はその時ばかりは忠実な犬のようだった。喜んで、と、肩を噛む。さすがにその痛さには耐えられなくて、思わず呻く声を漏らしてしまった。びくっと体を揺らしわたしの肩から水月の歯は遠ざかっていった。にこりと微笑んで見せると怯えきった顔はほっとした顔つきになった。滴る血の匂いに溢れ出して来たのか、やさしさは微塵も無くなり片方の手もきつく握られた。同じところに噛み付かれる。 耐えて、耐えて、耐えて、でも。ついに叫び声を上げてしまった。 増して怯えた顔になってしまった水月の顔といったら、なかった。わたしさえ耐えれば、このひとは狂わずにすむのに。わたしさえ、耐えることが出来れば。 「ごめん、ごめん、ごめん……っ」 「ううん、わたし噛まれるの嬉しいから」 「でも苦しそうだよ」 「それは、きっと水月の苦しみなんだよ」 「なんでそんなこと」 「別に。そう思っただけだよ?」 「……殴ってみてよ」 「え?」 「お願い」 ここ、と綺麗な指でさす位置はもっと綺麗な顔だった。嫌だった。殴ったら水月はもっと苦しそうな顔になるのに。ためらっていると、水月の目には少し涙がじわりと溜まった。仕方なく、軽く殴った。ばしゃりっ、と水月の顔はあっというまに水になった。半分残った顔には涙かもただの水かも分からないものが滴る。 「やっぱり君とは違うじゃないか」 「うん」 「嫌だな、それ」 「うん」 「だからおかしくなるんだ」 「うん……」 「一緒にいたいのに」 ふっ、と目がふたをされたようにかげったかと思った刹那、血がはじけた。今までのなによりも深いところから湧いて、はじけた血だ。さっきよりも痛いのに、血は深いのに、わたしは耐えた。水月が言ったように、一緒にいたいから。いわば彼の言葉が、麻酔だったんだ。 血の熱さにも、千切れそうな腕の痛みにも、耐えて、耐えて、耐え抜いてみせた。代わりに目のふちには熱い水が沸いた。 「……あ、ごめ」 「そっか、」 「え?」 「こんなに水月は、苦しいんだね……」 「ううん、違う、違うんだ」 「隠さないで。水月はそんなことしちゃだめだよ。ごめんね、苦しかったのに、ごめんね……」 「ありがとう……」 、ありがとう。 初めてこのひとりをみた気がした。初めて名前を呼ばれた気がした。倒れるようにしてわたしに身を預けて震える水月を抱きしめたいと思ったけれど、片方の腕は千切れかけで、頭をなでることしか出来なかった。 わたしは耐え抜いてみせる。この脆弱なひとりを守る為なら、腕ひとつぐらい、捧げる。 だから、どうか、そんなに、泣かないでと。 (08.07.11) |