それは深く柔らかな 絶対的な群青の存在を望む者




03.水
意味も無く空気が張り詰めている。何かが起こる前触れの様に、静まり返っている。

が来る。

あの日、電車でと話す様になってからというもの、時折空気が張り詰めるのだ。ちりちりっと、心の中が燃えている。時折、滾る。自分の体じゃないように重い時だってある。
チャイムが家の中に響く。どこの家にもある機械的な音だ。瞬間的に張り詰めた空気が切れ、がばりとベッドから身を起こす。来たんだ、と反射的に理解をした。母のきよえが、高い声でうれしげにあいさつをしているようだ。実年齢よりはるかに若い風貌で、オレの自慢の母でもある。オレも、あいさつしに行ってみよう。
タンタンッと階段を軽快に降りてゆく。途中の踊り場には、きよえの大好きな観葉植物がある。ポプラだ。結構、これをひっくり返したことがある。そのたび母はばつの悪 そうな顔をし、それでも笑っていた。
ポプラから目を逸らし、前に見えたのはの姿だ。私服だと、実年齢よりも遥に大人びて見える。いつもを寡黙を守り、控えめな物腰がそれを生んでいるのだ。彼女は本当に高校生か、とさえ否む。

「よお、ー元気してる?」
「まあね。それより、悪いね。晩御飯おじゃまして」
「いいって。母さんも喜んでるし、父さん、今日も帰り遅いし。二人で飯ってのも、寂し」

あっ、と思い、黙する。彼女には、父も母もいなかったはずだ。学校で、誰かからそんな事を聞いた。家族の話をするのは軽率だ。何がおかしいのか、口の中でひうひうと笑う。大人にしか出来ない笑いだ。その無表情の仮面の下には、今、どんな感情が疼いているのだろう。

「飯、まだだから。オレの部屋でまっとく?」
「そうさせてもらうー」

階段を上り、部屋に入る。床に座ったが、鞄から何かを取り出した。本、だろうか。表紙は真っ白だが、大きさは結構なものだ。オレも近くに寝そべり、ジャンプを読む。が何を読んでいるのか気になる。それよりも、この空気は嫌いだ。どちらかというとオレは黙するより、とめどない饒舌の方が好きだ。黙すれば必ず不安が高ぶり、相手の表情を伺ってしまう。悪い癖だと自分でも思う。

「なに読んでるんだ、それ?」
「……いずれ分かるよ」
「なんだそりゃ」
「このまえ、みたでしょう?」
「このまえって……ああ、電車のヤツか。あれってさー」

突然、可能が手のひらを自分に突きつけ、つづく言葉を制した。それから肩を少し上下させた。

「わかってるんだよね、ほんとは。聞く必要なんて、どこにもないよ」
「でもあの時……」
「答える必要はないな。聞いても無駄だよ」
「わかった……」
「よろしーい」
「ふみきー、ちゃーん!ごはんよー!」
「わーった、今行く!」

ジャンプを適当に置いて、一階へ向かおうとした。は何故か、さっき読んでいた本を持っている。なんで持ってくの、と問うても返事は無い。最近ではなれたことだし、別に不満はないのだけれど。階段を降りていく。途中、カレーの匂いがして腹が疼いた。改めて空腹だなと感じる。踊り場に出たとき、背中に違和感を覚えた。


ドンッ。


何が起きた?!手すりにつかまる暇なく、階段を勢いよく転げ落ちた。痛みはない。きつく目を閉じていても感覚はあっていいものだ。けれども木造の階段の角に当たる感覚など全然ない。
随分転げ落ち、最後には……落ちた。やわらかな水があった。沈んでいくのが分かる。目を開けると、限りない水に自分の息の泡が登っていく様子が見えた。沈んでいく。泳げない、ただ。沈んでいく……。

「水谷!」

手が差し伸べられた。ただ、がむしゃらにしがみつく事しかが出来ない。の華奢な腕が安易にオレを引っ張り上げた。あれ、こんなにも簡単に水面に出られた。こんなにも簡単に引っ張り上げられた。そもそもここは何処だ?何で水があるんだ。

「水谷、泳げなかったっけ?」
「いや、泳げるけど……ってかここ何処?!」
「知りたがってたでしょ」
「何を」
「水を」

水面に出てまず驚いたのはが水面で立っていた事だった。引っ張り上げられたオレも、水面に立てた。
オレが知りたがっていた?水を?まさか、ここは。

「そのとーりだね」
「え?」
「ここは、幻影の世界。まえにもきたよね、水谷」
「う、うん」
「それに知りたがってた。わたしが水谷の部屋で読んでたもの。あれね、水だよ。だから連れて来てあげた」
「えーっとこれって……感謝、すべき?」
「どっちでもいいよ」

群青の水面が反射してか、の目は青かった。その目がオレに向けられる。オレも今、こんな色の目をしているだろうか。
がにんまり笑った。子供のような屈託のない笑いだ。ああ、この笑い顔は、どこかで見たことがある。



「改めて、ようこそ水谷。幻影の世界へ」


群青の目が、俺に挨拶をした。いつもの琥珀色の目とは違う、群青の目だ。手が再び差し伸べられる。はやく、とが俺を促した。

「あたし、お腹すいた」
「なんで途中から突き飛ばしたんだよ。中途半端で、ビックリしたじゃねえか」
「ポプラの木」
「え?」
「ポプラの木、また倒したらきよえさん、悲しむでしょう……?」
「またって……、おまえ」
「はやく。おなかすいた」





帰ろう。





遠くで声がこだました。自らオレの手を取った、の優しげな声だった。ずぶずぶと音がして、体が水に飲み込まれてゆく。自分と水との境界線が無くなっていく。しだいにの姿も見えなくなり、あ、オレは水になると本能的に感じる。さっきの苦しさは嘘の様になくてむしろ、自分がもとより水手あったかのように優しく馴染む。境界線が消える。オレは、水になる。





「なに、何の音?!って文貴……?あんた何やってんのよ」
「……う、え?か、母さん」
「階段から落ちたの?バカねえ。ちゃん、もうお手伝いしてくれてるよ」
「は?だって今オレと一緒に……」
「みずたに」


今夜はカレーだってさ。


台所に戻る母の背中と交代に現れたは、さっきの本を持ってほくそ笑んでいる。目の色はいつもの琥珀色だった。あ、そうか、さっきはあの中に。あの幻想の中にいたのか。後ろを振り返る。ポプラは倒れずに、鉢植えの中に納まっていた。
前を振り返ると、知らぬ間に白い本が置かれていた。もどうやら、台所に戻ったらしい。パラパラとページを開く。どこを開けても水、水、水。でも何故か……



最後のページだけ、真っ白になって、濡れていた。





(08.06.01)