02.友好条約 きよえ、って人に街中で呼び止められて、何かと思ったらわたしがさっきの喫茶店で忘れてきた携帯を、わざわざ届けにきてくれたらしい。とってもキレイな人だった。 「お客さん、メールアドレス交換しません?」 と、にこやかに笑って、頼まれた。わたしはいつも、こんな風に笑えていただろうか……。笑ってたつもりなんだけどな。最近じゃあしんどくなって、面倒くさくなって、やめたけれど。この人の見た目からして(見た目で判断するのはよくないと思うけれど)怪しい人では無いらしい。「いいですよ」と答え、久しぶりに作り笑いをしてみた。この、きよえって人みたいに、笑えたかな。目の前の人の反応を見る限り、どうやらできてはいなかったらしい。 「ごめんなさい、今、虫歯が痛くて。迷惑とかじゃないんです」 ごまかしてみる。そう、と、きよえって人は言ってまたにこやかに笑った。 このふんわりとした笑い方は、誰かに似ている。そう…たしか、水谷文貴だ。クラスメイトで覚えている名前はほんの一部で、彼は確か、席が前だったのを覚えている。彼もこんな、花の咲いたようなふんわりとした笑い方をしていた。他人のそら似だな、と思った。 「ふふ、じゃ、喫茶店に戻ります。メール、送りますね」 それだけ言うと、彼女はすたすた去っていった。エプロンからして、さっきの喫茶店の店員だろう。バイトかな。 ふわふわなびいた茶色の髪が、かすかなよい香りを残していった。 ♪ わたしのパートをしている喫茶店で、高校生くらいの不思議な子がいた。一番窓際の席に座って、ぼーっとしている。そこまでなら、そこらにやってくる気品ある婦人や、年寄りとさほど変りは無いのだが……。目が、彼女の目は、不思議な色を発し、不思議と何もかも見透かすような目であった。それと共に、目が濁って見えたのだ。 彼女の元へオーダーをとりにきた時、彼女は目線はかわらず先を見詰めているまま、無表情のまま、ただ「カプチーノがいいな。すっごくおいしい、カプチーノ」と言っただけだった。目は濁ってはいなかった。幻影だったのだろう。彼女の口はもそもそ動いているだけで、答えるというよりも、呟きかけているようだった。はい、ごゆっくり、といつものように答え、マスターにとびきりおいしいカプチーノを作ってもらうように頼んだ。カプチーノが出来上がるまで、彼女を見詰めていたけれど、やっぱり何も変化は見られなかった。 「きよえさん、できたよ。とびきりおいしいカプチーノ」 「あ、どうも」 自然に口が緩む。受け取ったカプチーノには、かわいらしくハートの柄が描かれていた。そして窓際の、あいかわらず無表情の彼女の元へ向かった。 「お待たせしました。とびきりおいしい、カプチーノです」 「ああ、ありがとうございます…」 そういったとき、彼女がはじめて笑い、こちらを向いた。彼女の目を見たとき、ドキッとした。わたしの全てを見透かされた気がして、心に風穴が開いたようだった。キレイな琥珀色の瞳だった。 それきり彼女はまた無表情になり、カプチーノを全て飲み終えてすぐ、店を出て行った。窓から見えた、彼女の変える姿も、やっぱり無表情で……ああ、本当に。不思議な子だ、そう思った。ほう、とため息が出たとき、目に入ったのは携帯電話だった。 彼女の忘れ物? マスターに断りをいれ、携帯を手に彼女の元へ向かった。無性にうきうきしている自分が、正直不思議でたまらなかった。 50メートルほど走って、すぐ、彼女を見つけた。亀が歩くみたいに、ゆっくりゆっくり歩いているのだけれど、のろのろとはしていない。お客さん!と呼びかけても、彼女は振り向こうともせず、ゆっくりゆっくり進んでいく。足早に彼女の元へ行き、今度はとんとんと肩を叩き、お客さん。そう呟いた。 「わたし、きよえっていいます。さっきの店の、店員です。このケータイ……お客さんのですよね?」 「え……ああ、確かに。わたしのです」 「よかった!じゃあ、これ」 「ありがとうございます」 「お客さん、メールアドレス交換しません?」 「え…?」 自分でもハッとした。何を言っているんだろう、わたしは。彼女も、驚いているし。きっと不審者だと思われている。とっさに、いつものよう、口を緩め笑った。無表情の彼女からは、胸のうちがとうていよめない。あせっているわたしに、彼女は「いいですよ」と、意外な返事をくれた。けれど、彼女の笑顔はひきつっている、造りものめいた笑顔だった。やっぱり、無理なお願いをしてしまったのだろう。ほとんど衝動的なものだったけれど。 「ごめんなさい、今、虫歯が痛くて。迷惑とかじゃないんです」 なんとも、相手を気遣うような言葉だった。顔にでていただろうか。けれど今度は、自然に口が緩み、自然に笑みがこぼれた。まるで、少女の頃に戻ったように、心がきらめいたような気がした。赤外線で、メールアドレスを交換し、その時に名前を教えてもらった。 それから…彼女にメールを送るといった通り、何度かやりとりをしたり、わたしの働いている喫茶店にきてもらったり、町で買い物なんかをしたりした。あいかわらず彼女は無表情だったけれど、それでも楽しんではいるようだった。 彼女との交流が3ヶ月くらいたった頃、彼女がわたしのうちにお昼ご飯を食べに来ることになった。そして、初めて知った。わたしの息子の文貴が、彼女とクラスメイトだということに。そして文貴も、わたしと同じくらい驚いていた。彼女はそうでもないらしく「あ、水谷。あの日の電車いらいだね」といった。 その日、わたしと文貴と椎名ちゃんで、カレーを食べた。 初めて出来た、高校生の友達だった。 (08.06.01) |