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01.風列車 いつもいつも、教室の隅に座っている女の子がいた。たしか名前を、 と言った。の日本人離れした琥珀色の目は、ごくまれに白内障の様に濁って見えるときがあった。マネキンの様に、いつも無表情で、席が前のオレが後ろを向いてじーっと凝視していても、やっぱり変らずに無表情。目が合っているようで、合っていなくて、あんたなんか見えてないって言われているようだった。オレなんかには透明人間で、いつもオレの背中も、そのまた前の席の奴の背中も透かして。さらには教室の壁も黒板も、全てを透かして何かを見詰めているようだ。何を。何を見詰めている?あのときおり濁った目から、何が剥離され、何を宿しているのだろう。いわゆる、"孤独"だとか"獣"だろうか……。 宿しているというよりも、囚われているのだろうか。ひとりぼっちが好きなのだろうか。自分で言うのもなんだが、寂しがり屋のオレには、考えられないんだけれども、さ。 なんとなく……は、オレとは交える事がないような人だ。ただいつものようにオレを透き通って行き、突き抜けて行くような。あいつの前では、皆存在が消えていく気さえしたものだ。 そんなが、偶然オレの家にいて、偶然オレの母さんのきよえとなぜか知り合いで、偶然学校に遅刻したオレが乗った電車にいる。これは、もはや偶然ではなくて、必然になるのだろうか。けれど、それでも透き通ってゆきそうだ、うん。そもそもうちの母親と友好関係があるだなんて、不思議でならない。一緒にご飯を食べられるのは、うれしいけども。 とオレがいた電車の通勤ラッシュはとうに過ぎ、中は空いている。なのに、オレの斜め前にいるイヤホンをはめたは、座ろうとせずにつり革につかまり、いつもの無表情を決め込んでいた。必死で目線を送っても、(きもいんだろうけど)やっぱり交わる事は無くて、ちょっぴり虚しくなるオレ。そっと座席を立ち、電車のゆれに負けないよう、の隣へ向かった。つり革につかまると、プラスチックの部分がなんとなくべたり、としていた。いろんな人たちの手あかや汗が、物体化しているような気がして、つり革につかまっていない方の腕がこわばった。きっと本心は不潔とか、思ってる。イヤホンをつけたまま、無表情のままのは以外にちっさくて、話しかけるにしても首を下に向けないといけない。これは、案外結構しんどいのだ。「ちぃーっす」と気軽に挨拶してみた。一応、オレ的には勇気を出していたと思う。やっぱり、反応なし。今度はちょっと強めに、「ちぃーっす!」と言ってみた。の口が 半開きになる。細い指でゆっくりとイヤホンをはずし、クセなのだろうか鼻をグズグズとこすった。それからようやく一言、返ってきた。「ああ、水谷さん、ヘローヘロー」以外とジョーク交じりの、おかしなあいさつ。シカトしてた訳じゃないんだね、よかった。意外とこーゆーヤツだった訳ね、うん。でもやっぱり、無表情で、なんか……複雑だなあ。 「それ、何聞いてるの?」 話題をふってみた。 「 だよ」 ぼそり、聞こえないほどの声を呟いてきた。でも、どこか艶があって、潤っていて、低く低く。不思議な声だと思った。どこかの世界に吸い込まれていく、はまって、一部になって、砂漠の砂に飲まれる……幻影が見えた。 ガタン、電車のゆれで我に戻りかけた。世界がバリバリと剥離していって、現に引き戻されていく。 目に理性が戻ってきて、ようやく、え?と問い返すことができた。はちょっとだるそうに、でもやっぱり不思議な声で答えてくれた。 「風、聞いてるんだよ」 「……かぜ?」 「水谷さんも、聞いてみたいでしょう」 こくり、頷いた。やっぱり表情の無いまま、だらしなくないほどに口を開いたが、イヤホンを渡してきた。やっぱり、オレ透き通っていそうだ、琥珀色の目に映ったオレは、の焦点に合っていないんだろう。なんだかな、そう思いながらイヤホンを受け取った。耳にはめる、何も、最初の十秒ほどは聞こえてこなかった。あ、とが呟いた。 「再生ボタン押してなかったや、」 「ははっまじかよ」 すぐになにか聞こえてきた。再生ボタンを、押したのだろう。聞こえてきたのは、風鈴の音だ。チリーン、チリーンと、溢れ出るように、どんどん、聞こえてくる。田舎のばあちゃん家の縁側を思い出す。スイカをむさぼりながら、ヒグラシの声を聞いたっけ。 辺りがさあっと何かに包まれた。藍色と白と青と。まるで油絵でかいたような、ベタリと現実味の無い風景だ。が聞かせてくれた風鈴の音が響く。それとほぼ同時に、数限りない風鈴が姿を表した。風鈴を通して、何かが見えた。ああ、なんだかな。これか、な。透き通っている、と同じみたいに。このままずっと先でも見えそうで、もっとみたくて。だれかの背中が見えた。裸で、真っ白い背中で。背中からうなじまで、それだけしかみえない。やっぱり油絵でかいたようにまわりとよくなじんでいて、やがてそれも消えた。チリーンチリーン、チリリーン……風鈴がうるさくなる。目覚ましの様に機械的な音じゃない。それぞれに何かがある、個性がある。しだいにあたりが、暗くなる。 「さ みず た……さん。水谷さん、水谷さん」変だな、の声がする。 むくり、と起き上がると、あたりはすでにかき色の空だっただった。夢見てたんだ、オレ。それとも幻影かな、が観せてくれた。隣にはがいた。寝てた?問うてみる。 「うん、ぐっすり、ね。どう?風の音は」 「…ああ、とっても綺麗だった。ほんとに」 それはよかった、とはにんまり笑った。寝ぼけてるのかな、オレ……。ってこんな笑うやつだったけ。つられてオレも、にんまり笑った。はじめてと目が合った気がして、無性にほっとした。でも、やっぱりすぐにいつもの無表情になってしまった。 「なんで風、その……風鈴なんだ?」 「きいてなんになるのさ」 目がこの上ないほど、濁っていた。何か、壁が出来ていて、踏み入れてはいけない領域に触れてしまった気がした。 なぜそんなに悲しそうなんだよ、もっとさっきみたいに笑おうぜ、なあ。 鼻をグズグズこすったが、無表情のまま「置いてけぼりは、いやでしょう、水谷さん。」と言った。意味はよく分からないけれど。俺が寝ている間に、が電車を降りていく場合のことだろうか。そうだ、待っていてくれたんだから、お礼の一言でも言わなければ。そしたらまた、笑ってくれるだろうか。 でも、それよりもさきに……。 「オレんこと、水谷って、呼んでよ」 水谷……と彼女は呟いて、薄笑いの仮面をつけた。 (08.04.10) |