恋の





栄枯材を購入




唇のすぐ隣に、かさぶたができていた。どうしても隠しようがないので、そのまま学校へ向かう事にしよう。わたしが寝坊したので、母はたいそうご立腹だ。そそくさと冷蔵庫をあけ、野菜ジュースをパックから直接飲んでいると、また怒られた。時計を見ると、そろそろやばい時間だったので、母のことは無視して家を飛び出した。


ため息が出る。今日は朝から全然ついてない。不幸な事だらけだ。ぎりぎりで遅刻はするし、課題は家に忘れてくるし、そのことを水谷にまでからかわれる(もちろんぶん殴っておいた)。最も気になっているかさぶたを触っていたら、また水谷が「なにそれ?ほくろ?」なんて言ってきやがった(蹴ってやった)。
こんな顔を、阿部には見られたくないと思っていたけれど、わたしは諦めが早い。授業前になればそんなこと、すっかり忘れていた。
ああ、そういえば。昨日、千代に

「阿部くんとつきあうことになったんだ!」

といわれた事も、半分意識から飛んでいた。あーあ、そうだった。わたしの片思いだなんて、すっかり腐っちゃったんだから、かさぶたの事なんて気にしてもしょうがないじゃん。そもそも、千代と阿部が付き合うことになったのを、今まで忘れていたぐらいだったから、わたしの恋なんて全然たいしたものじゃなかったのかもしれない。そんな事を考えていると、あっという間に授業は終っていた。

お昼ごはん、いつもは千代とわたしと阿部と花井とついでに水谷と食べる。でもわたしは空気をよんで、中庭で食べる事にした。千代は一緒に食べようよといってきたけれど、がんばってね、それだけ言って教室を出た。顔は笑っていたかどうか、わからない。

中庭は、生徒が全然いなくて、すこしほっとした。だって大勢の中でひとりだなんて、すこし惨めだ。隣のクラスに行こうと思えば、行けたんだろうけど、なんだかだるくてやめにした。
お弁当をあけて、大好きなハンバーグを食べようとしたとき、声がした。花井の声だ。

「あれ、もここ着たんだ?」
「まーね。千代たちがあの調子だから」
「いっしょに食べよーぜ」

いいよ、と適当に返事をして、ハンバーグを食べた。いつもなら、おいしー!とかいって、みんなでわいわい食べるんだろうけど。花井は意外と饒舌だった。というよりも、気まずい雰囲気を盛り上げようとしていただけだろう。いろいろな他愛のない話、たとえば、昨日のテレビの話とか、部活の話。そんないろいろな話を聞かされた。
適当に相槌を打ってやり過ごそうと思ったが、不意な質問に思わずお茶が飛び出しそうになった。


「おまえ、篠岡に譲ってもいいのか?」


さすがの花井も、直接「おまえ阿部が好きだったんだろ」なんて聞くような無神経ではなかった。水谷なら、わからないだろう。まあ遠まわしに言っているつもりだろうが、わたしの心にはグサリと刺さる質問だ。阿部のことを好きだったとバレていたことが恥ずかしくて、顔が紅くなるのを感じる。わたしはそこから、何も話さなかった。


放課後、雨が降った。天気予報を見る暇もなかったわたしは、傘忘れたーなんてのん気な事を考えていた。ああ、本当に今日はついてない。弁当食べてるときに変な事聞かれるし、雨まで降って気やがった。不幸なときはとことん不幸だな、ほんと。水谷いわく、今日の野球部の活動はミーティングだけらしい。そんなことよりも、昼休みに水谷は誰とご飯を食べたのだろうか。空気をよんでほかのやつと食べたのだろうか。いつもならそう聞いていたと思うけれど、やっぱりだるくてやめにした。

玄関で、わたしは立ち往生していた。学校で貸し出していた傘は、どうやら全部貸し出してしまったようだ。でも、ほとんどだれもいない玄関は、妙に居心地がよくて物思いにふけることができた。もちろん、阿部のことだ。

おまえ、篠岡に譲ってもいいのか

どっちかっていうと、別にいい。そんなことで友情を潰すほど、わたしはバカじゃないし、そこまで阿部を好きだったわけじゃない。
でも好きだったことはたしかで、全然悲しくなんかないといえば嘘になる。要するに中途半端なんだ、わたしは。この程度の気持ちなら、好きになんかならなければよかった。わたしの恋は、全部自分で押し込めたゆえにパンクした。それを花井が見つけたんだろう。千代や水谷、それから阿部もどちらかといえば鈍感……だと思うから、気づいてはいないだろうな。
不意に、千代の声が聞こえた。かわいらしい、柔らかな声だ。当然の様に、傍らには阿部がいる。

「ちゃん、傘忘れたの?」
「うん、朝寝坊したしね」
「じゃあじゃあ、これ、使って!」

これ使う?じゃなく、使ってと断言する言い方が、千代らしい。自分の必要なものを他人のためにためらわず差し出せるんだ。傘だけじゃない。きっとわたしが阿部を好きだといえば、千代はわたしに譲ってくれる。千代はきっと、あきらめる。
一瞬で駆け巡る自分の卑しさを押し込めて、苦笑した。
見るからに、傘1本しかないらしい。

「いいよ、わたし時間あるし。阿部と二人で帰りな」
「大丈夫?ほんとに」
「大丈夫、大丈夫。阿部ーちゃんと送ってやれよー」
「るせえな、水谷とおんなじこといってんじゃん」
「え、嘘?!」
「まじまじ」
「もーやだ。はやく帰れ!じゃあね、千代!」
「うん、ばいばーい!」

いつもの日常だ。もどりつつある。こういうときに、諦め癖がついていることに感謝する。このまま、普段の日常にもどっていけば、幸せな千代と阿部を祝福して上げられる。そしたら次第に、わたしも阿部が好きだったなんてこと忘れる。そのうち、花井も忘れるだろう。そしたらわたしの想いなんて、欠片もなくなる。全部無くなるんだ。それがいい、絶対に。
玄関からは千代と阿部の相合傘が見えた。真っ赤な傘がとても鮮やかだ。
手を、唇の横のかさぶたにあてる。いち、にい、さん、ベリッ。血が指に触れる感じが伝わった。あの傘の様に、わたしの血は鮮やかだろうか。舐めてみる。鉄の味がした。あーあ、跡が残っちゃうかもしれない。そしたら、阿部を好きだったということを忘れられなくなってしまうだろうか。
わたしは無意識に、目を抑えた。



(08.08.15)