太古の昔、あなたは羊水の街で暮らしていた



人知れずそれを望む少女がいた。オレはその少女のそばに居る事を望んだが、少女はそれを許さなかった。
この手で、少女の腕を掴んだこともあった。少女は何も反応せず、ただ深く笑うだけだった。深海の魚が笑うように。 それはほんとうに柔らかな拒絶だった。けれどもオレ自体の存在は、彼女も受け入れてくれたのだ。 それがなによりもの救いだと、オレは思う。

「海が羊水ならいいのにね。息継ぎもせずにいられるから、きっとそこに住めるよ。阿部も、そう思うでしょ」

人知れずそれを少女は望んでいた。少女は、自分が産まれる前にいた羊水の持ち主を知らなかった。 つまり、少女は母親という存在をしらなかった。そもそも、親という存在を少女は知らなかったのだ。 オレにはそれが有る。うちの母親は弟バカなんだけれども、不服はない。
当然の様に少女は母を求め、いつからか羊水という言葉を覚え、そして羊水の海という存在を望んだ。 いまにも消えてしまいそうな、はかない望みだった。けれども、その望みはたしかにあって、 それは羊水の様に潤っていた。

「羊水の海に住めるんなら、なんだってするのにな」
「……じゃあ、死んだらいいよ」

妬みや恨みから生まれた言葉ではなかった。ただ事実を言ったまでだ。おれは生まれ変わりを信じている。 だからオレの考えでは、一度死んで、再び母の中にある羊水の海へと飛び込めばよいのだ。 そこで住めばいい。残念なのはそこにオレが入れないということだ。


翌日、雨が降った。いつも雨が降ったときに少女は、これが羊水ならいいのにね、と言っていた。
けれどもその日彼女の声を聞く事はなくて、ただ花井から、


が自殺した。



と聞いた。溢れてとめどなく零れる生徒達の声をが聞けば、これも羊水だったらいいのにね、と言うだろう。
でもそれを聞く事は、もうできない。
オレの説では、少女は今、羊水の中で泳いでいるだろう。



                   
   





(08.05.07)