風が吹く 闇に解ける さよならが聞こえる 死んではなにも感じぬ

振り返れば、空虚な時間だったと思う。人生なんて言葉は、わたしには全然相応しくないな、なんて。 ただ普通に生まれ落ちて、ただ普通に暮らしてきて。そこらへんに普通に紛れてしまうような存在で。変った事なんて全然なかった。 平坦だ。悪い方にも落ちきれない。良い方なんて尚更だ。 もし、わたしの生きた時間に名前をつけようと思えば、「無題」。うん、これがいい。

学校の屋上、フェンス越し。あと十センチも進めば、見えるのは無。それだけ。待ち遠しくてたまらないけれど、楽しみはじらすほど、素晴らしいものになる。 なんてね、嘘。待ってるんだ、阿部のこと。もうずっと待ってる。 だから、うしろで気配がしたとき、誰が来たかすぐにわかった。確実に近づいている。振り向く。ああ、やっぱり、阿部だ。

「あのさーオレって、意外と忙しい人間なんだよね」
「んーまあ知ってる」
「じゃあ何で、おまえが死ぬときまで、つき合わされなきゃなんねーんだよ」
「そりゃあもう、わたしが死ぬときですから、あんたに見届けてもらわなきゃなんないでしょうが」
「馬鹿野郎」

そういってあんたは舌打ちした。阿部の視線が、右斜め下に落ちる。何年も、あんたと一緒にいたんだから、その仕草がどういうものかは分かるよ。 いっつも阿部は、自分の思っている事を隠すために、態度を悪くする。ようするに、ひねくれている。 思わず笑ってしまった。

「なに笑ってんだよ」
「え、いやあ。わたしが死ぬのがそんなにいやなんだね」
「うぜえ」
「否定はしないんだ」

ほらまた。視線が右斜め下にいったでしょう。また笑う。阿部は舌打ちをする。不意に、携帯電話の着信音が鳴った。随分聞き慣れた曲だ。

「だれ?」
「んーとね、あ、お母さんだ」
「でねえの?」
「どうせ早く帰って来いとかでしょ。それくらい分かるってば」
「いいのかよ……」

なにが、とは聞かない。それも大体分かる。家族を残して、死んでもいいのかよ。何も言わずに死んでもいいのかよ。ほらね、予測可能だ。 別に構わない。もうどうだっていい。生まれたときから、そうだったのだから。 鳴り響く携帯電話を、落としてみた。聞こえるはずもなさそうだけれど、壊れる音が確かに、聞こえた。潰れたんだ。

「わたしも、こうなるんだね。壊れて、潰れて、三日もたてば、何も無くなってる」
「……だろう、な」
「ねえ、阿部」
「なんだよ」

息を呑む。泣きそうになるのを必死でこらえる。おかしいね、わたしって。なんで泣きそうになんかなるんだろう。 たぶん、次に発する言葉は、最後の言葉。だから、うんときれいに言いたい。


「わたし、阿部と一緒に居られて、幸せだったんだよー」


悪い癖が出た。わたしは、誤魔化そうとするとき、語尾を延ばす。いかにも、無気力ですよって言うように。息が、震えていた。 もう、阿部の顔は見ない。死ぬときになるまで、見てあげない。今、阿部がどんな顔してるか、分かるしね。

「、オレ……お前のこと、」

飛び出した。阿部の言葉を最後まで聞かずに、飛び出した。聞きたくなかった。ただそれだけだ。 少し首をひねって、後ろを向いてみる。
最後に見えた阿部の表情は、今までに見たことがなくて、ただ。綺麗だったな、そう思った。




(08.05.04)