踏んでも上げても転んでも、やっぱり追いついてくるんだ

ちょっとダサイと思うけど、自転車のベルをチリンチリンって鳴らしてみた。それが蜜色の空とよく絡んでたり馴染んでたりと、案外すてきだった。 けどな、やっぱ、おっさんくさいよな。そんなこと思っていても、やっぱりチリンチリンってベルを鳴らす。
帰り道の周りは田んぼだらけで、車も通ってきやしない。そこらへんに自転車をほっぽったら、ガシャーンと音が鳴って、そいつは無防備になった。 わたしも無防備になろうと、靴も靴下も脱いで、おじいちゃんの田んぼにダイブした。まだ稲植えてなかったよな、うん?セーフセーフ。 半分水から顔が出てる中途半端な苦しみが、やけに心地よい。起き上がると、カッターシャツもスカートもぐっしょりで、なんだかおかしくて笑えた。
おまえも笑ってんの?影さんよ。
影のほうを見詰めると、やっぱりあんたはこっちを見詰めてくる。その深い闇色に、のんべらりんとした顔をこちらに向けてね。鬱陶しくてたまらないさ。 こいつと縁が切れたらどれだけうれしいんだろう。何かのはさみとかカッターとかで、こいつをちょきんと切れたら、最高なんだろうな。 できないんだろうな、一生。十何年も生きてたら、そんくらい分かるさ。だから嫌なんだよ。
ぐっと力強く握り締めたこぶしを、水面めがけて振り下ろす。じゃぼーんという音と共に、影も水面も揺れた。断ち切れる。断ち切れそうな気がする。 このままこいつを揺らし続けたら、知らぬ間に剥離していって、わたしを放ってくれるかもしれない。そしたら自由になれる気がする。
もう足掻くのは疲れた。沈みたい。
望みは叶えられた。再び寝転んだわたしは、柔らかい田んぼの泥にズブズブと飲み込まれたいった。あー死んじゃう。おたまじゃくしさん、もしそうなったら わたしを糧に立派に成長しておくれ。
チリンチリーン。

「おーい、!なーにしてんのー?」

チリンチリーン。ズブズブ沈んでいくわたしの体を、ゆっくりゆっくり起こしていく。髪の毛も服もどろどろで、目の前に田島がいるなんて、声を聞かなければ 正直分からなかったと思う。泥やら水やらを拭うと、やっぱりいつもの目をくりくりさせた田島が自転車にまたがっていた。

「沈んでんの」
「制服じゃんかー。風邪ひくぜ?」
「えーのえーの」
「じゃ、オレもー」

そう言うと、ジャージをはいた田島も田んぼの中にダイブした。田島の自転車がわたしの自転車に重なって、これまた痛快な音を出した。うわっ、泥しぶきが気持ちいい。 やべーおたまじゃくしがくちにはいったー。ぺっぺと、おたまじゃくしを吐き出そうとする田島は、実に愉快だ。うん、結構結構。

「ふー。なあ、これん家の田んぼー?」
「じーさまのじゃよ」
「へえ。じゃあ、オレのじいちゃんと友達かもね」

それきり田島は、泥に体をうずめていた。沈んでも、ましてや足掻いてもいない。そんな田島を見ていたら、あーこいつって自由だなって思った。本当に、素直にそう思った。 なにやら喋りたいみたいで、田島がくちを動かすたびにぶくぶく泡ができた。何を言っているのか気になって、起き上がる。ちゃぽんと言う音と共に、影も姿を現した。
鬱陶しい。ねえ、田島。影って鬱陶しいよね。いつまでもくっついてきやがって……。
あら。あらららら?こいつ、影がねえじゃんか。なんで、こいつだけ?なるほど、だからこいつは自由なわけね。卑怯者め。畜生……。

「田島、あんた影ないじゃん」
「あーうん。最近切った。なに、もいらねえの?」
「いらないよ!ねーどーやって取ったの?」
「なーに。超簡単」


闇にいればいいんだよ。



やみにいれば。なるほど、ああ、なるほど……。なんで簡単なことに、何で気づかなかったんだろう。闇にいれば、影はできないものね。 やっぱり田島は卑怯者だ。普段はわたしよりも頭悪いくせに、なに今更冴えてるんだか。野球だけじゃなかった訳ね、冴えてるのは。

「田島は、闇にいるの?」

気がつけば、ごくりと生唾を飲んでいた。同時に泥も少々、飲み込んでしまったらしい。不快ではない。むしろ、素晴らしいと思う。
ねえ、たじまはやみにいるの……?
田島はふっと笑って、こう言った。


「もおいでよ。自由になれるから」



闇こそ自由の影なり



(08.04.28)