蛇の様に、闇色の手が伸びてくる。ゆっくりと、何気なく、けれども殺意をこめてその手は伸びてきた。抵抗は出来ない。ただ体を捧げる事しか出来ない。
何者の手かも分からない手が、ゆっくりと喉を締め付ける。ぬるぬると、湿気が纏わり付く。触れられた所が腐食していくのが分かる。死んでしまう……このままでは、死んでしまう。
やめろ、来るな!オレはまだ生きたいんだ!
悲鳴を上げ、飛び起きる。叶は無意識に、両方の手で首を弄った。大丈夫、オレはいる。体はカタカタと震えているが、安堵のため息が漏れた。
ここはどこだ?ああ、保健室か。そう理解した瞬時に、扉の開く音がした。織田だ。
「どうした?えらいうなされとったで。そとまで聞こえとった」
「いや、別に。何でもない。んなことより、何でいるんだよ」
「ああ、湿布とりに来ただけやけど。いけるか?熱、あるんと……」
織田の手が伸びてくる。蛇の様に、巻きついてくるだろうか。共に恐怖が押し寄せる。せり上がり、締め付け、満たす。
やめろ、やめてくれ!オレに触るんじゃねえ!
反射的に出た左手が、力一杯に織田の手を振り払う。鈍い音が響く。荒い息が漏れ、悲鳴を押し殺す。ダメなのかもしれない、もう、オレは。この頃よく思うことだ。
織田の表情がくもる。
オレが何をしたっていうんだ。一体こいつはどうした、狂ったのか……。
人の良い織田は凝視して、こちらを伺っている。
「ど、どうした、その、」
何かあったんか?
わからねえよ。そんな事、オレに聞かないでくれよ。何もオレに求めるな、そして。オレをもう必要とするな。あの頃とは違うんだ。格別さ。
「……んじゃねえ」
「え?」
「さわんじゃねえよ!!」
驚きを隠せずにいる織田は、目を見開き、半歩下がる。大きな声を出しすぎたのだろう。けれども限界だったのだ。いつからこうなった?いつからこんな不安定になった。
いつから感情を誤魔化す術を身に付けた。それは自分でも分かっているだろう?何を今更問う必要がある。
「悪ぃ……まだ体、だりぃだけだから。ほっといてくれ」
「そ、そうか。じゃあ、オレもどるわな」
ゆっくり休めよ。そういって織田は部屋を出て行った。薄っぺらな布団を体に巻きつけ、顔だけを出す。一人になり、再び体を震わす。怖いんだ、オレは。
何が?未来が。これから先、オレにはどんな奴に巡り合って、どう過ごしていくのか。もうあいつ以上の交わりを持つものには巡り合えないかもしれない。
暗く、光の無い空虚な被害妄想ばかりが頭に浮かぶ。
オレが仕掛けたんだ。あの頃のの変化に気づかなかった、オレ達が悪いのかもしれない。そうしたら、織田。お前も共犯者だな。
力一杯に、拳をつくった。途中布団まで巻き込む。痛い。血は出ない。ただ漠然と、生きている。そのリアルが纏いついた。
俺はもう眠らない。闇に引きずり込まれるくらいなら、これから先、一生眠らずに生きてゆく方がまだマシの様に思えた。
嗚呼、なぜこんなにも、無力なんだろう。
♪
少し蚯蚓腫れになっている。保健室で叶が俺の手を払おうとした時、爪がかかった跡だ。最近あいつはおかしい。いや、がいなくなった時からだろう。
あいつはもう、限界だろう……そろそろ。懸命に抑えている。ひどく傲慢な高揚した感情が、むき出しになろうとしている。そうなってしまえば、後は見えてる。破滅だ。
それを抑えようとする姿は、オレにはちゃんと見えているのだから、よけい痛々しく映るのだ。
叶、おまえの欲するものは、そう遠くは無いはずだろう。目を覚ませ、楽になれよ、叶。
言いたい事は定まってはいるが、口に出すのはもどかしく、おぞましい。触れてはいけない一線に、叶の引いたくっきりとしたラインに触れてしまいそうな気がした。
そうなれば、必ず後悔する。触れなければよかった。触れなければ、崩れはしなかっただろうし、結局は何も見い出す事は出来なかったじゃないか……と、後悔する。
決して大きくはない部室に、大勢の部員が着替えをしている。汗臭く、蒸し暑い。青春の匂いがする。俺等の青春は終ったのか?問うても、答えが返る事はない。
どんな問いにも返ってくるのは、いつも決まって不毛な感情と、あの日の星空だった。ほうき星こそ意味も知らず探していた、あの日の星空だ。あの後すぐ、ほうき星が
流れ星だという事を知ったっけ。今では、当に、昔の出来事だと錯覚している。
帰路に着いた。今日はよく空気が澄み、星が存分に散らばっている。もちろん、あの日決めた正座だけを見詰めていた。きっと今頃、叶、そしてもこの星を見ているだろう。
今の自分と同じように、深く沈んでいる姿が容易に想像できる。
そんな今、三人に共通していることがあっても、大した意味は失くしてしまっただろう。いや、見失っているだろう。なんて惨いんだ。意思もなく動く、それはただ惨い。
病んでるんだ、三人とも全員が。被害妄想が広がり、光のない暗闇に溺れ、自分の中にいる悪魔と戦っている。それを支えているのは、少なからずこの星だというのに、
見失ってしまったのだ。
「さわんじゃねえ……、か……」
唇からこぼれたものは、ほとんど無意識だった。少しばかり、大気を揺らした。
つりあがった猫の様な叶の目が、あれほど鋭利なものになろうとは。もう一線に触れているんじゃないだろうか。後悔を通り過ぎてしまったんだろうか。だったらなんだ。
もう、過去をえぐるようなことはしなくてもいいだろう。いい加減、吹っ切れろよ。未練ったらしい。
それができたら、苦労はしねえよな。だろ、叶。お前がにかけた電話の数だなんて、片方の手の指で数えられるほどだっだよな。伝えたい事なんて、この星の数ほど
あるだろうに。ただ叶は、伝えることに怯えている。それだけだ。
一番輝いている、高校時代の俺たちの存在はほとんど絶無。今でもそうだ。だからといって、世界のたった三人の存在が消えうせようと、別に構いはしないだろう。何事もないと言い放つように、ただ、時は回ってゆくのだ。
それでも俺たちはただ、ずぶずぶと闇の底へとめり込んでいった。苦しみも、破滅願望も、悲鳴も…すべてを押し込み、抱えたまま。
唯一の繋がりの正座は、蜘蛛が作り出す糸ぐらい細くなっていて、今にも切れそうになっている。
嗚呼、そうしてこんなにも、果てしないんだろう。
(08.04.29)
(三人天体観測の続編。なにかあったらまた書きそう)