張り付くような夕焼けにいた背中達
もくもく、湯気が立ち込める。合宿二日目の晩、少女の特権で風呂を後にまわしてもらったわたしは、銭湯の風呂場を独占していた。あまり広くも無い風呂場の中は、
この町の発展度数を表しているような気がする。
ひとりになるとやっぱり襲ってくる、あの感覚。
荒れた手を、鼻の穴に当てる。わたしって、生きてるっけ。そもそも、何で生きてるんだろう。この鼻から出ている生暖かい空気は、自分の息と理解しているだけで、
ほかに何の意味があるのだろう。その手が徐々に、左の乳房に向かう。ふくよかとは胸を張って言えない乳房からは、ひそめる様な音量の心拍音が、皮膚を通し
感じることが出来る。でも、それだけでは生きているという確かな証拠にもならないような気がした。
荒れた手にある爪は、左手だけが長い。その爪で、内腿の部分を思いっきり引っかく。当然の様に、痛い。けれど、わたしにとってはそれが肝心なのだ。徐々に
赤いものが、にじんでくる。大丈夫、ちゃんとわたしは、機能している。つまり、生きている。痛いと身を持って感じ、そして体が役割を果たしているか目で見
ることが出来る。不器用なわたしが生きている事を実感するためには、他に術が無かった。
ひとりきりの風呂場の中に、ひたひたと足音が響く。誰かが使っていた腰掛を、丹念に石鹸で洗い、流す。さっき造った傷に、湯に飛び散ったときに
のぼせたような感覚に陥った。生きているってやっぱり苦しい。肉体的にも、精神的にも。わたしの細胞によると、今日は、湯につかる必要は無いらしい。
♪
風呂から上がり、牛乳瓶を片手に宿泊場所に戻る途中、巣山に会った。片方の手で坊主頭をじょりじょりかき、もう片方には水がとめどなく溢れているホースが握
られていた。湯冷めしたのかもしれないわたしがくしゃみをすると、巣山はあからさまにビクつき、こちらを向いた。いつものように、ああ、。と呼ばれた。返事を
するまでも無いでしょう。変りにどうしたの?と問う。
「ああ、いまね、水遊びしてんの。ほかの皆は、ちょっとあっちの方行った」
確かに、なにやらギャーギャー言う声が聞こえる。田島の奇声に近いものが、高らかに響く。山の隅まで届きそうで、うるさい。
「巣山はいかないの、皆のところ」
「まあどっちかって言えば、つかれたから休憩中。はいま、風呂上り?」
「まあね。外で風呂代わりに遊んでる男児達よりも、すっきりはできないけどね」
「ははっ。あ、牛乳。ちょっとくれよ」
「やだ、不潔」
「冗談だって。間接キスがどうのって感じじゃないしね」
「いや、そういうんじゃなくて、もっとこう…何ていうか、わたし、潔癖症なのかも」
ばか、なにいってんだよ、わたし。まゆげをあげて、驚いてる巣山は、そんな奴が野球部のマネジしてくれてるなんてな、とまあ真面目に言ってくれた。
何ででしょうね、わたしにだってわからないよ、そんなこと。変だね。
「なあ、そういえばさ。って何で左の爪だけ長いの」
「んー難しい質問だね。まあ、知らぬが仏ってやつだよ」
「なんだよ。別になんもいわねえから、おしえてくれよー」
「ま、簡単に言えば……生存価値実感器具ってところかな」
「?なんじゃそら」
見た目以上に鈍感な巣山は、やっぱり理解してくれないよね。どうみても頭の上にハテナが付いてるし。すこしでも察知してほしかったんだけどな、と思うわたしは
やっぱり弱いな、うん。だめだ、さっきの風呂のときみたいに、何かがのぼせてくる。抑えられないような、感覚。体を支配して、思い通りに動かされる。
「巣山はさ……自分が生きてるって実感できてる?」
「え、どうした、いきなり」
「わたしはね、わかんないよ。息してるって確認しても、心臓の音確認しても。あやふやで、わかんない。そもそもわたしが、わたしって自覚しているだけで、
本当は何者なんだろうとか。わけわかんない事いっぱい考えちゃう。そしたら、すごく、苦しくて……ぼやけちゃう」
「、」
「わたし、死人よりも死人らしいって言われた事もあるよ。巣山も自分が何者か、わかる?小さな感覚でもいい。生きてるって、どんなことかわかる?」
「……俺は、生きてるって、それだけなんだと思う、よ、うん。生きてるってだけに、意味があるのかも……。わりぃ、やっぱ、俺も、わかんないわ」
「巣山、手、貸して」
巣山のごつい手を、傷だらけの内腿にあてる。巣山は、また頭にハテナを出して、坊主頭をじょりじょりかいてる。顔は赤らんではいない。
「さっき、わたしの爪のこと、知りたいっていったよね。答えはここにあるよ。ここ、傷つけてるの。痛いとか、苦しいとか、感じることが
できるから、確かなんだ。さっきも、ここにいっぱい造った。これが、巣山が知りたいことの答えだよ。巣山が知りたいって、いったんだからね」
「……」
「どうしよう、巣山。わたし、これから先も、ずっとこうなのかな……。生きてるってわかんないのに、生きててもいいのかな。どうしよう、どうしよう……」
助けて。そう、すがるようなSOSを遠まわしに伝えてみた。巣山はそれを理解してくれたらしく、わたしの頭をくしゃくしゃ乱した。気づけば巣山のでっかい体に、
頭を引き寄せられていた。ほぼ無意味に、ジョワジャワと、ホースから溢れる水が足を存分にぬらす。
目から勝手に零れたものは、涙なのかもやっぱり分からなくて、虚しくて、荒んでいた。ただ、この汚い体から全てを吐き出して、巣山が潤していってくれるよう、願った。
藍色の空は、わたしたちが早く帰るべきところに帰るよう、促しているようで、うっとうしい。億劫だ。
時間よとまれ。わたしが生きていると実感できるまで、もう少しのような気がする。
(08.04.29)