「痛っ」



うっかりしていた。湯船に浸かってほっとしているうちに、うでの傷の事なんかすっかり忘れていた。昨日母に引っかかれてできた、

見るからに痛そうな傷は、今日になって蚯蚓腫れになっている。ぱしゃりと音を立て桜の香りがする湯を顔に近づけた。痛いのに涙

が出ない。涙が枯れたとはこういうことだ、とふと思う。湯船から傷だらけの体を引きずり出し、のぼせていながらもう一度、体を丹念

に洗った。



* * *



うでの傷をさすりながら家を出た。気持ちのいい朝だ。なのに、ひどく悲しいのだ。こんな朝に限ってちっぽけな焦燥感を覚える。しば
ら く電車のゆれに体を預けてうつらうつらしていると、耳元で「あれ、じゃん!」と声がした。









「水谷かよ。おはよ」

「はよっす!てかお前、かよ、ってなんだよ!かよって!」

「てか,テンション高いよ。朝練あるんじゃないの」

「いや、もうすぐテスト期間だしね!皆赤点取ったら試合出してもらえないからさー。もう必死でさ〜!」

「まあ田島と三橋君はピンチよね」

「ああ、あいつらいなかったら試合やばいなっ!どっちも、部のカナメだからなっ」

「ははっそうだね」







ついつい笑ってしまった。昨日覚えたらしい『要』という単語を早速あなたは使っている。まるで子供のようだ。随分微笑ましい。
「あっ」っと声がして、あなたの 視線が私の腕に落ち着いた。一瞬あなたの目がさっきと比べ物にならないくらい暗くなった。ほんわかし
た水谷にとうてい似合わない顔だった。 お構い無し。窓から見える青空に向けて、私は腕をゆらゆらと揺らしてみせた。





、それ新しい傷…?」

「うん」

「なんで誰にも言わねーの?」

「別に、誰かに言ったからってどうこうなる問題じゃないんだよ」

「お前、大丈夫なの?」

「うん」

「痛い?」

「うん」

「辛いだろ?」

「うん」

「きれいな腕だな」

「ばーか」





それから、あなたの言葉に私はもう「うん」としか言えなかった。あなたの言葉は安心するのに、なぜか苦しい。 本当は天真爛漫な正確のあなたの

心に、わたしの傷の醜さがどのようにうつっているか。それを知るのが不安で恐ろしい。

水谷が私の手を握る。ああ…そうか。あなたはこういう人だ。前から知っていたはずなのだ。 人の傷に触れたがり、たとえそれがどんなに重かろうと

包みたがる。 あなたはそういう人だ。



朝の太陽の光が私の涙に反射してキラリと光る。 それは枯れたはずだった涙。







「大丈夫だって!俺もいるしっ。それにほら!花井も篠岡もいるじゃん!ついでに阿部もな」

「ついでは可哀想だよ」

「しゃーねえよ!あいつ俺んこといじめんだぜ!」

「ねぇ、水谷」

「ん?何?」

「あたしね、水谷に会えてよかった…ありが…とう」

「当然だろー!」







笑って目を細めると同時に、涙がほほを伝う。それを服の裾でぬぐう、ふにゃりという効果音がぴったりな笑い方をあなたはした。

あなたの手を私はぎゅっと命一杯握る。その時確かに感じたのは、腕の痛みではなく母へのねたみでもない。ただ。 私の中の

何かがほんの少し、けれども確かにほどけたこと。

窓を見るとその景色は、すでに学校周辺の駅を超えていた。 ふにゃりと、二人で笑う。目を閉じて、あなたの声を聞く。



「どこまでいく?」



目が開いたとき、私の何かがまた少しほどけているんだと思う。



傷跡

(とおくへいきたいよ うでのきずがなおるまでに)







(08.2.23.)







(水谷キャラがちょっとずれているのはあしからず)